11月頃は、多くの高校で演劇の地区大会が行われる季節ですね。この大会では、顧問やOB・OGが審査員を務めることも多く、そのために「贔屓があるのではないか」「審査基準が偏っているのではないか」と疑念を抱く人もいるかもしれません。
しかし、実際に審査で高評価を得ている人たちと、そうでない人たちには必ず何かしらの違いが存在します。これは単に審査員の主観や関係性だけでなく、舞台での表現や技術の面で確かな要因があるのです。自分の経験や見解も含めて、その要因についていくつか紹介したいと思います。
1,高校生活を描いたものが高評価を得られるということではない。
「高校生活を描いた作品が評価されやすい」とよく耳にしますが、私はそれにはもう少し深い理由があると感じています。確かに、高校を舞台にした作品には自然と評価が集まる傾向がありますが、そこには大きな要因が隠されています。それは、作品にリアリティが宿りやすいという点です。
例えば、高校生がサラリーマンの日常を描くのと、自分たちの高校生活をそのまま演劇で表現するのとでは、どちらが観客にとって現実味を感じさせるでしょうか?やはり後者でしょう。高校生が自分たちの日々の生活や感情をもとに描くことで、戯曲の中にその場所での空気感や出来事が生き生きと息づくのです。その場での経験や思い出が自然に表現に反映され、リアリティが格段に増すのです。
これをサラリーマンの日常を描く例に置き換えてみると、役者は観客に自分を本物のサラリーマンだと思わせなければならず、観客の中にサラリーマンがいるならば、彼らに共感や感情移入をさせるほどの完成度が求められます。そのくらいリアリティがなければ、舞台は信じてもらえません。ですから、高校生が自分たちの高校生活を描くことには、それ自体に大きな価値があるのです。そのリアリティが、作品に対する高い評価につながっているのだと思います。
2,戯曲のテーマによって贔屓はされる
「戦争や差別をテーマにした演劇が評価されやすい」とよく言われますが、そこにはリアリティの問題が関わっているのだと思います。先ほどの高校生活を描く話とも重なりますが、これらのテーマを高校生が演じる際には特別な難しさがあるのです。
例えば、日本に住む高校生にとって、実際に戦争を経験したことがある人はほとんどいませんし、差別についても普段の生活の中で直接体感する機会は少ないでしょう。つまり、自分がその場にいたこともなく、実際の感情を味わったこともないのです。そんな状況で、戦争や差別をリアルに描き出すことは非常に困難です。
自分が経験したことのない感情を探りながら、それを舞台上で表現し切るというのは、大きな挑戦です。その難しさを乗り越えて観客に伝わる作品に仕上げられるという点が、こうしたテーマを扱う演劇が高く評価される理由ではないでしょうか。
3,出会いに理由がない
見知らぬ男と女が出会う理由が「たまたま」とか「偶然」というのは、よくある戯曲の設定ですが、正直なところ、そんな都合の良い展開が多すぎるように感じることがあります。物語を成立させるためには、確かにこのような偶然の出会いは便利で、観客にとっても受け入れやすいかもしれません。しかし、時には「もっとリアルで必然的な出会い」を描いてほしいとも思います。
偶然の出会いにはドラマ性があり、それが運命的なものとしてロマンチックに彩られることで、作品に引き込む力が生まれるのは確かです。けれども、こうした偶然の展開に頼りすぎると、「またこのパターンか」と感じてしまい、どうしても新鮮味が薄れてしまいます。現実の人間関係はもう少し複雑で、多くの場合、何気ない瞬間やちょっとした行動が積み重なりながら、少しずつ人と人とがつながっていくものです。
もし、そうした必然的な出会いや理由を掘り下げて描くことができたなら、より芯の通った、深みのある戯曲になるのではないでしょうか。出会いが偶然ではなく、二人の背景や人生の選択が自然に重なった結果であるような物語。それこそが本物の共感を呼び、心に残る作品になるように思います。
4、独白を説明だけの道具に使いがち
「自分の名は@@で、~で~である」といった独白でキャラクターを説明する手法には、どうしても不自然さを感じます。観客に舞台の世界を信じ込ませるためには、その場面や設定に没入させる時間が必要なのに、その大切な時間を削って独白で説明をするのは、かえって舞台の臨場感を損ねるように思います。
独白が多用されると、「説明のための説明」になりがちで、視聴者にとっても展開が見え透いたものになりやすいんですよね。特に真面目なシーンでの独白は、物語の自然な流れを阻害してしまうことも少なくありません。
ただし、独白をコメディの一種として使うケースを見たことがありますが、そうした手法は非常に効果的だと感じます。コメディでは、あえてキャラクターが観客に語りかけることで、笑いや親近感が生まれ、舞台との距離感を逆に縮めることができるのです。独白を説明のためではなく、ユーモアや意図的な演出の一環として使うことで、むしろキャラクターや物語の魅力を引き出すことができるように思います。
5,物語設定が甘すぎる
リアルな世界観で魔法が存在する設定は非常に魅力的ですが、そこで重要なのは「魔法が存在する世界」に対する緻密な設定です。魔法があること自体は問題ありませんが、重要なのはそれが「何ができるのか」を具体的に示し、世界にどのように影響を与えているかを描き出すことです。もし魔法が当たり前のように人々の生活に根付いているのであれば、その存在が日常生活や社会の仕組みにどう反映されているのかが舞台上で表現されるべきです。
例えば、魔法が流通や医療、教育にまで浸透しているなら、その活用方法やそれに関連する職業、さらには魔法の力に関する法律や倫理観など、あらゆる面で世界観が緻密に設計されている必要があります。これによって、観客は「この世界には本当に魔法が存在するのだ」と信じ込むことができ、物語に深みが生まれます。
一方で、こうした細かな設定を描くことが主目的ではなく、もっと気軽に魔法の存在を楽しみたいのであれば、コメディの方向性を取るのも良い方法です。魔法を「便利なツール」や「トラブルのもと」としてコメディの要素に組み込み、笑いを誘う展開にすることで、あえて細かな設定を排除し、軽妙に物語を進めることができます。
まとめ
高校生活を描いた作品が評価されやすいのは、高校生が自分たちの日常をリアルに表現できるためであり、
戦争や差別といったテーマも、自ら経験しない感情を演じる挑戦が評価につながります。
また、物語で偶然の出会いに頼りすぎると、新鮮味が薄れ、必然性が欠けると感じます。独白も説明に使いすぎると不自然で、物語の流れを妨げることがあります。さらに、魔法のある世界観には緻密な設定が求められ、観客を納得させるためにはその影響が日常に反映されるべきです。